今週も創刊号からです。今回は水産大学校助教授、立平進先生の投稿です。
江戸時代、熊野地方や四国土佐、肥前西海を中心に鯨を組織的に捕獲する鯨組と呼ばれる大きな組織がありました。元禄時代から1700年を前後とする頃がもっとも盛んで、そこで働く人々の数は当時の産業としては桁外れのものでありました。筆者は西海地域の捕鯨について調査研究を進めてきた者で、その地域を例に鯨組の陣容について記します。「鯨史稿」1808年を参考にすると納屋場と沖場を合わせて386人の常雇いが必要でありました。なお、納屋場の人数はすべて役職者のことでこの下で何十人もの人が働いていました。これらの他に雑役として魚見の十数人や大工、鍛冶屋、医者などが加わります。また鯨が揚がった日には日雇い人夫の数は正確に把握できないほど多数になることが推定できます。
「納屋場にて鯨捌の図」(長崎県立美術博物館蔵)には250人もの人が描かれており一人とし無駄な動きはありません。納屋場の奥には肉を分ける場所や骨を分ける場所のほか鯨油をとる部所があり、それぞれ約40人もの人が描かれています。その人数を合計していくと700人以上になるのです。
これが長州捕鯨では「長州捕鯨考」(徳見光三1957年)によると「鯨組の業務従事者は諸役、捕鯨乗員の総人数で704人、鯨船52隻を持つ陣容です。
西海地域の鯨組最盛期には長崎県、佐賀県を中心に73組もの鯨組が置かれていたと記録があります(西海捕鯨記 享保5年)。これを単純に計算すると1組を500人とみて70組では3万5千人となり、まさに巨大産業といえるものとなります。これに日雇いが加わるのであり、それぞれの家族のことを思うと経済的な波及効果は絶大なものがあったといえます。ただ、鯨組には春浦と冬浦の別があり全部の組が一時期に操業していたわけではありませんが、それでも大きな数字です。
創刊号では会のシンボルである「会旗」についても紹介があります。
親子鯨の伝説をヒントに会のシンボル「会旗」を制定。ミンククジラ2頭をあしらったユニークなデザインで三戸会員、㈱ワークスプロのアイデアです。下関彦島に伝わる「親子鯨」の伝説をイメージするとともに、2頭の構図に会員の調和・親睦を表し、下関くじら食文化を守る会の躍進と世界の平和を象徴するものです。会旗の制定以来、キャッチャーボートの出港・入港や下関さかな祭、母船入港時に参加しています。今後もシンボルとして活躍が期待されます。