日本の開国は1853~1854年にかけてのアメリカ海軍司令官・ペリー提督の黒船来航によってもたらされたと我々は学校教育で学びました。
電気や石油がなかった時代、欧米では鯨油(げいゆ)が重要でした。鯨油は照明、潤滑油、石鹸などに用いられました。くじらは産業革命を支える重要な資源でした。なかでもマッコウクジラの油は高品質で世界中で需要が高まりました。
この結果、アメリカの捕鯨船は大西洋からインド洋、さらには太平洋へと進出し、日本近海は重要な捕鯨海域となっていました。しかし、長期航海をする捕鯨船にとって、燃料・水・食料の補給、乗組員の休養や医療は不可欠であり、太平洋のどこかに安全な寄港地を確保することが切実な課題でした。
捕鯨船の活動が活発化するにつれ、日本近海では欧米船の難破や漂流事故が多発しました。江戸幕府は鎖国政策のもと、異国船に対して厳しい対応を取っていましたが現実的には漂流民の救助・送還という問題を避けて通ることはできませんでした。アメリカ側は、こうした漂流民の人道的保護を名目に、日本に対し港の開放や補給の許可を求めるようになりました。表向きは人道問題でしたが、実質的には捕鯨船の活動拠点確保という経済的・戦略的な要求でした。
1853年のペリー来航は単なる通商要求ではなく、捕鯨船の安全確保が重要な目的でした。ペリーの国書には漂流民の保護・薪・水・食料補給、修理港の提供といった項目が明記されていました。さらに、当時のアメリカ海軍は捕鯨産業と密接な関係にあり、捕鯨船の保護は国家的な利益と認識されていました。
黒船は「武力による威圧」だけでなく「捕鯨という経済活動」を支えたのです。
中原雅夫氏の著作「くじら百話」では1636年オランダ船が日本近海でくじら274頭捕獲した、1855年には函館に300隻が来訪とあり、さらにアメリカ本国では1850年頃には出漁船数736隻、従業員は7万人と記述があります。こういう状況でしたから日本にどうしても港を開いてもらう必要性があったのです。
一方、日本には古くから沿岸捕鯨の伝統があり、くじらは食料・肥料として、また信仰の対象として地域社会に深く根付いていました。欧米がくじらを「工業資源」として追い求めたのに対し、日本は「生活文化」として向き合っていた点に大きな違いがあります。この価値観の違いが開国後の捕鯨摩擦や近年の捕鯨問題に連なっていったのです。
黒船来航には蒸気船と大砲だけでなく、くじら油を求めて航海する無数の捕鯨船の存在がありました。くじらが直接的ではないにせよ、日本を世界史の大きな流れに引き込んだ存在だったのです。